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相応しいBGM その3

 

 すっかり秋めいた気候になってきた。うっかり薄着で家を出てしまい、帰るころにはすっかり寒くなってしまった。

 家に着き、中に入ると昼間の余熱なのか部屋は暑かった。丁度良い、と思ったのもつかの間、暑くてシャツを脱いだ。

 丁度良い季節というのは短い。一年中、大抵暑いか寒いかだ。

 冬になればストーブ、とつい思ってしまうが、こっちに越してきてから一度も使っていない。エアコンか電気ヒーターだ。石油ストーブは本当に暖かい。実家の庭には父親が趣味で使っている薪ストーブもある。いや、電気の方が手軽で便利なのだけれど、便利なものはなんとなく無粋だったりする。

 時間やお金を節約できると、なんとなく得をしたような気になるけれど、その節約したお金や時間で何をするか、それが抜けていると本末転倒だ、ということなのかもしれない。

『a better place to pray』の相応しいBGMその3は、ミスター・ロンリィ。マイケル・ジャクソンとしてしか生きられない男を描いた同名の映画もおすすめです。


Bobby Vinton - Mr. Lonely

 

 高校三年生のときに車の免許を取って、家のカローラをよく乗り回していた。当時でも古い車だったのでCDは無く、カセットとラジオだった。夜中になって、手持ちのカセットに飽きてくると、ラジオに切り替える。そうすると流れてくるのが、この曲のオーケストラバージョンと伊武雅刀さんの声だ。

 大分後になって、同名の映画を見たときに、この曲が歌で、歌詞があることを知った。生まれた場所を遠く離れ、戦場で孤独にいる兵士の歌だった。

 

これは葬式だ。何かが弔われていく。呪いの言葉も、きっと祈りだったのだ。祈りという大きな枠組みの中の、ほんの片隅に呪いがあるのだと思う。ミスター・ロンリィ。彼は自分の孤独を弔っていたのかもしれない。けれど、呪いの言葉になったせいで、望まぬ客がやってきたのだ。僕は歯を食いしばり、拳を握った。どうしてかは判らない。多分、何かが悔しかったのだと思う。(本文より)

 

相応しいBGM その2

 十代の頃は、無邪気に愛や希望を歌う歌が嫌いだった。お前らお気楽でホント羨ましいよ、ってな具合に。表面的に飾り付けがしてあるだけで中身が空っぽな、そういう歌を喜んで聞いてる奴らも頭が空っぽのバカだと思っていた。若気の至りだ。

 そういう若さのバカさを失ったのか、ただ単に鈍感になってしまったのかは判らないけれど、この頃はそういう歌も気にならなくなった。宜しいんじゃないでしょうか、ってな具合に。人にはそれぞれ、いろんな事情がある。お気楽な歌を歌っているいように見えても実は……、的な。他人に対して安易な物語を、それこそ想像で付与するのも、どうかと思うけれど。そういう当たり前のことが判ってきたからだろうか。

 反対に、「人にはそれぞれ、いろんな事情がある」ってのを判らずに自分の狭い価値観だけであれこれ言う人をアホだと思うようになったけれど。と、自分の価値観だけで言ってみる。

『a better place to pray』の相応しいBGMその2は、映画『スワロウテイル』の劇中バンド『yen town band』が(劇中で)初めて演奏した『My Way』。フランク・シナトラのヒット曲(?)のカバー。作詞は、日本だと某ボウリングドラマの主題歌で有名(?)な、ポール・アンカさん。CDに収録されているバージョンより、劇中の、ラフなセッションの延長線上のようなバージョンの方が好きだ。

 


YEN TOWN BAND結成の序曲「My WAY」

 円が世界で一番強くなった架空の日本のお話であるこの映画の中では、日本は円都(イェンタウン)と呼ばれ、円を稼ぎに来る外国人たちを日本人たちは円盗(イェンタウン)と呼んで蔑んでいる。いろいろと突っ込みどころも多いけれど僕はこの映画が好きで、たまに見返している。

 日本人の警察官(?)が三上博史演じる中国系外国人を取り調べるときに、ボコボコに殴りながら「この円盗(イェンタウン)が!」と言ったとき、「円都(イェンタウン)はお前たちの故郷の名前だろ」と言い返すシーンが好き。

 煙草を線香代わりにする冒頭のシーンを見たときは、なんとなくウゲーと思ったけれど、これはこれで印象に残っている。

一筋の煙が昇っている様は、線香のようでもある。そういえば昔見た映画に、煙草を線香代わりにしているシーンがあった。
そう考えると、ここで行われているのは、何かの葬式なのかもしれない。何かを弔うために、みんなここで煙草に火を点け、煙を上げているのだ。でも一体、なんの葬式なのだろう。

 

相応しいBGM その1

 新作短編『a better place to pray』を本日9/22に発売しました。noteに掲載した掌編『レモン/グラス』も同時収録です。

 表題作の短編は後日刊行する短編集『ガールフレンド』にも収録されます。先行シングル的なやつですね。

 タイトルはオアシスの名曲『Dont' Look Back In Anger』から。お前この曲好きだな、と思われるかもしれません。去年出した『Our Numbered Days』の第4話にも使いました(意図は全く違いますが)。

 聞いてもらえば判ると思いますが、イントロは完全にジョン・レノンの『イマジン』の丸パクリ引用ですね(中心メンバーのギャラガー兄弟は熱烈なビートルズファンです)。ファンの間でも通称『イマジンイントロ』などと呼ばれているとかいないとか。

 アリアナ・グランデのライブ会場で起きたテロ事件の追悼の場でも(自然発生的に)歌われたくらい、イギリスの人たちに第二の国歌のように親しまれているようです。

 


Oasis - Don’t Look Back In Anger

 洋楽を聴くようになったのは中学三年生の頃で、きっかけは映画『アルマゲドン』の主題歌目当てで従兄弟から借りたオムニバスアルバム『MAX BEST』でした。そのCDに入っていたこの曲を初めて聴いた時の衝撃(?)は今でも覚えています。それまでJ-POPしか聴いたことのなかった僕には、メロディもサウンドも初めて聞く種類の音楽に聞こえました。そしてなにより、冒頭の歌詞にも感銘を覚えました。

Slip inside the eye of your mind

Don't you know you might find

A better place to pray? 

君の心の瞳に滑り込めば 

もっと祈りにふさわしい場所が

見つかるかもしれないのに

  そのCDの歌詞カードには、確かに上記のように記載されていたと思います。けれど、本来の歌詞はprayではなくplayで、ネットで検索しても、なんなら自分の持っている輸入盤の歌詞カードもplayになっている。誤植だったのです。でも、『祈りにふさわしい場所』という言葉は、それ以来ずっと僕の中に残っています。

 

だから、これはきっと祈りなのだ。でも、もっと相応しい場所があるようにも思う。何でも良い、何処でも良い。けれど、もっと。もっと、相応しい場所が何処かにあるはずなのだ。
一人、また一人と、火を消して立ち去っていく。丁寧に消す者もいれば、乱雑に放り投げる者もいる。みんなどこかへ行く。きっと、目的地はあるのだろう。でも、あてもなく消えていく煙のようでもあった。どこへも行けないから、祈りに相応しい場所が、見つからないのかもしれない。

(本文より)

 

夏が終わる

 

 最後の最後の三十一日。本当に八月と共に夏が終わるかのごとく、涼やかな日になった。

 お盆の終わりくらいに、森先生がお盆について軽く言及しているのをブログで読み、「確かに確かに」などと思っていたら、偶然に近所の家の前に茄子の午ときゅうりの馬が飾ってあって、うっかり蹴飛ばしそうになって、「こんなシチュエーション前にもあったな」なんて思った。前回のブログにも書いたけれど、そういう場面を描いたのだった。

 そこから思い至って、二年前の2015年8月に出した短編集『夏の魔物』の連載というか再掲載というか、そんなことをやってみたのでした。

note.mu

 僕も子供の頃、小学校高学年くらいまでは、お盆には親戚の家に行って、お墓参りをしたりもしていた。いつの頃からか行かなくなってしまったけれど(お金のことで一悶着あったらしい。そういう大人の事情があるということは理解出来るくらい成長してはいたけれど、それが具体的になんなのかが判るほど大人ではなかった)、あの頃は子供心に、ご先祖様の霊とかお墓参りとか、どう解釈していただろうか。小学二年生くらいのときにはすでにサンタクロースがいないことを理解してたので、霊がいないことことかお墓参りに本質的な意味はないことくらいは判っていたと思う。けれど、要は年に数回、離れて暮らしていても親戚同士顔を合わせましょう、そういうときに子供たちが茄子の牛とかきゅうりの馬とか作ってたらなんとなく楽しいでしょ、誰も本気で信じちゃいないけれど、こういうものはいわゆる方便の一種で、整合性とか気にせずに、なんとなくやりましょうよ、的なことなのかな、と思っていた。もちろん子供だったので、薄ぼんやりと、ではあるけれど。

 夏の海にも、もう何年も行っていない。父親が海が好きで、ただいるだけで充実したような表情を浮かべる人だったけれど、僕にはまだそれは判らないし、人とゴミでいっぱいの場所に出かけたいとも思わない。でもまぁ、海は好きかな。

 特に夏らしいことを毎年するわけでもなく、何か夏という季節に楽しみを見出しているわけでもないのに、夏がなんとなく好きだと感じるのは、自分が生まれた季節だからなのかな、とも思うけれど、これも可笑しな話で、生まれた瞬間のことは覚えていないし不思議だけれど、まぁ、こういうのは整合性とか気にせずに、なんとなく感じておこうかなと思う。

 そういえば今年の誕生日、僕は仕事だったのだけれど、奥さんは休みだった。どこかへ出かけていったから、それとなく尋ねてみたら、友達が働いているカフェ(?)が陶芸のワークショップ(?)をやっているらしく、それに参加してきたという。対の茶碗を作ろうと思ったけれど難しかったからビールマグにしたという。ふむふむ、これも似たような話をどっかで読んだな。奥さんには読ませていないんだけれどな。まさにラララライフ。

 

 今年は、そんな夏の終わりでした。

 

幽霊とナスの牛の話

 

 一昨日の前くらいに駅から家までの道を歩いていたら、近所の家の前に置いてあった精霊馬を蹴飛ばしそうになってしまった。そこでふと、あー前にもこんなシチュエーションあったなぁ、なんて思ったのだけれど、記憶違いだった。正確には、そんな場面を自分の小説に書いたのだった。

 二年前に出した「夏の魔物」という短編集の中の「TVゴースト」という短編だ。いや、掌編というべきか。せっかく思い出したので、期間限定で公開することにした。

note.mu

 これから毎日、連載というわけではないけれど、更新していこうと思う。今回は「TVゴースト」で、翌日からは表題作「夏の魔物」を一節ずつ。

 九月になったら、公開は終了します。

 

夏の魔物: Out of Standard

夏の魔物: Out of Standard

 

 

珍しくゲームの話

 どうもみなさん。王木亡一朗です。

 こちらでお会いするのは随分と久しぶりですね(このくだりも何回めやら)。

『この広告は90日以上更新されていないブログに表示されます』という広告が表示されてしまいました。まずはこれを消そう。そうしよう。

 先月半ばにPS4を遂に(!)買ったのですが(万難を乗り越えて)、早くも飽きてきています(笑)。やっぱなー、やらされてる感があるというか。メタルギアソリッド5をクリアして、今はGTA5をやっているのですが、ミッションというかストーリーやるより、ストア襲撃したり(二回やったのでストア再襲撃)、スポーツカーで高速走ったりしている方が楽しいです(湾岸ミッドナイト的な)。

 メタルギアソリッドシリーズは、ずっと追っているというか映画を観る感覚で楽しんでいるので、プレイは下手くそです。すぐに見つかって戦争になります。乱暴ランボー。4は当時、友人に借金の担保的にPS3ごと預かってプレイしました。まぁ、でも誰かにお金を貸すとやっぱり嫌な気持ちになりますね。だから極力貸さない!

 なのでほぼ十年ぶりぐらいに家でゲームやっているんですけれど、月並みですが映像が綺麗でビックリしました。水面とか夕焼けとか。リアルですねー。ちょっと感動。

 こういうこと書くと、「いや実際の景色の方が何十倍も綺麗だし感動するよ」なんてことをドヤってくる人ってのが居るものですが、いやそうじゃねーんだよ! 人の手で作れるんだってこととか、なんかそういうことというか。実際の景色の方が綺麗なのは当たり前じゃん、というか。

 まぁ、でもこういう会話って向こうも悪気があるわけじゃないというか、単なる反応というか自動的に言ってしまったりするというか、そもそも会話って半分くらい単なる反応というか自動的だったりしません? 良いか悪いかは別として。相手の話をフラットに聞いて、ゼロから考えて返答するのって、ずっとやっていると疲れるというか。「ツーと言えばカー」じゃないですけれど、お約束というか、会話ってそう毎回毎回生真面目にやらなくても良いというか、お互いに求めていないというか。気心知れた仲だったら尚更。だから良くも悪くも適当に言ったり聞いたりする会話ってのもあっても良いとは思うんですが、この『自動モード』ってのもずっとオンにしてるのも疲れます(えっ)。

 なので、家にいると『自動モード』は割とオフっているんですけど、奥様との会話って難しいというか(笑)、オフってると悪気はなくても聞き流しちゃったり(こら)。はたまた生真面目にゼロから考えて返答したりすると、「なんでそんなマジになるの!」なんて言われちゃったりします。

 いや、マジになるのは良くね!? 『自動モード』ってのは言わば『テキトー会話モード』ってことなんだから、こちとら誠実に会話しているつもりですけど!? となるのですが、「こういう時はね、うんうんそうだねってただ言ってくれれば良いの」なんて言われるわけです。「なんとなくただ話を聞いてほしい時があるの。それなのに理屈ばっか並べて言い返してこないで!」なーんて言われてしまう亡くん。

 

「だったら壁にでも話してろよ」と、スコール・レオンハートFF8)みたいなことは言いませんが、言ったら大変なことになるでしょうね(言いませんが)。

 いやでも、FF8って面白くなかったですか? 世間では恋愛メロドラマ的駄作扱いを受けているようですけれど(未確認)、僕は結構好きです。システムとストーリーも程よく絡み合っているというか。よく「ドローがダルい」みたいなこと言う人がいますけど、魔法は精製するんですよ。結局三回くらいやったかな。三回めはカードばっかやっていた気が。


Final Fantasy VIII - Eyes On Me

 

 小説のことも、ちょっとだけ書くと、今は短編を幾つか書いています。全部上がったらまとめて出す、その前に先行シングル的にひとつ出そうかな、と考えています。

 

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読書感想文:岸政彦『ビニール傘』

 恥ずかしながら、齢三十一にして、まともな傘を持っていない。振り返れば高校生くらいの頃から、ずっとビニール傘だ。普通の傘というのは、なんとなく持っているだけで仰々しいというか、ビニール傘の、あのラフな感じが、気に入っているといえば気に入っている。靴や時計や服なんかは、まぁ、それなりのものを持っている。仕事をしていると、やっぱりある程度は見た目で判断されるし、何より相手に失礼でない見た目が必要な場面も出てくるからだ。

 けれど、傘だけはなんとなく、揃えられていない。多分、毎日必ず必要なわけではないからだ。天気予報というものも最近ではそれなりの精度になっているものの、時間と場所をピンポイントで予測できるわけではない。雨の予報でも、家を出たら、まだギリギリ降っていないこともあるし、季節によっては突然の豪雨なんてこともある。

「いやぁ〜、突然降りましたね。天気予報、一応見ていたんですけどねぇ」「家を出たときは降っていなかったんですけれど〜、こっちは降ってますねぇ」などと言いながら、とりあえずの品としてのビニール傘を使う。それで、ずっと事足りることが多い。

 ビニール傘は軽い。どこかに置き忘れても、大したことはない。便利さ、というには随分と都合の良い手軽さがある。けれど、どこかだらしがない。だらしがないよな、ということが判るくらい大人になった、というよりかは、だらしのなさが持つ、ロック的な格好良さ(あるいはその手の錯覚)が、もう自分には纏えないという諦念なのかもしれない。

 岸政彦著『ビニール傘』は芥川賞候補にもなった表題作と『背中の月』という短編からなっている。僕は二作目の『背中の月』の方を面白く読んだ。

 どちらの作品も、本業が社会学者だという著者ならではの視点から描かれているように思う。よく面白い小説を指す言葉として、「キャラクターが立っている」という言葉が使われるが、この小説の場合は、景色、風景、その描写が立っている、といえるかもしれない。匿名性の高い、社会の底辺ギリギリにいる登場人物たちが、大阪という町の片隅で、それぞれの日常を過ごすのだが、それぞれの部屋や職場、毎朝歩く道、その風景、生活の景色が描かれることで、名前を持たない人々が、鮮明に描かれる。いや、その人々や生活自体は、どちらかというと燻んでいるのだが。

 昔、とある作家が新人の頃、「人間を書けば、社会が書けますから」と、大御所作家に豪語したらしいが、その逆パターンだろうか。社会を書くことで、人間を書くというか。

 大阪やその近辺の土地勘が全然ないので、出てくる地名に対してシンパシーやリアリティを感じることは出来なかったし、合間に挟まれている風景写真にも、飾り以上の効果を感じなかったが、小説に浸るにつれて、見入ってしまう写真も何枚かあった。なので、飾り以上の効果はあったのだろう(どっちやねん)。それに、装幀(表紙)の感じはカッコイイ。ツイッターで友人が勧めていて買ったのだが、ネタバレ的なものが嫌で、彼のレビューはまだちゃんと読んでいない。だから、ほとんどジャケ買いだ。

 電車の窓から見える、日々少しずつ朽ち果てていく廃屋の描写がある。それを見ながら、そこに住んでいたであろう人たちの生活を想像する場面が、特に良かった(まさに私的で詩的で素敵)。仕事終わりに立ち寄った喫茶店で読んでいたのだが、不覚にも少し泣きそうになってしまった。

ビニール傘

ビニール傘

 

  ビニール傘は、透明なのも良い。向こう側が良く見える。けれど、そろそろちゃんとした傘を買おう、とも思う。透明なものはきっとないだろうけれど、きっとまだ色くらいは選べるはずだ。そんなことを、なんとなく思うのでした。