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あの・・もうすぐ三十四歳になるんですケド。

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 もうすぐ三十四歳になる。具体的にいえば、8/30だ。同じ誕生日の有名人は、嵐の松潤井上陽水キャメロン・ディアスなど。錚々たるメンツである。まぁ、こんなことで威張っても仕方がないが。

 別に若さに執着があるわけではない。節目、などと特に意識しているわけでもない、と自分では思っている。厄年だとかジンクスだとか、そういったものを本気で信じているわけでもない。けれど、やっぱりどこかで意識はしていて、この「三十四歳」という年齢も、以前から頭の片隅に鎮座していた。

 思えば「三十四歳」以外にも、なんとなく意識していた年齢というのはあって、たとえば原田宗典の小説の影響で「十九、二十歳」なんて年齢には、過ぎ去ってしまった今でも、どこかノスタルジックな思いがある。新潟の実家を出て上京した年齢だというのもあるし、先輩から薦められて、まさにリアルタイム(?)で、この小説を読んだということもある。

 あと僕は昔、音楽というかバンドをやっていて、それはロックバンドだったのだけれど、ロックという音楽をやっている多くの人たち(最近は知らんけど)は、やはり「二十七歳」という年齢は多かれ少なかれ意識してしまうと思う。これは「ロックの厄年」などと言われていて(誰に?)、ジミ・ヘンドリクス、ジム・モリソン、ジャニス・ジョプリンブライアン・ジョーンズカート・コバーンなどなど、ロック史に名を残したミュージシャンたちの多くが二十七歳で亡くなっている。最近(?)だと、エイミー・ワインハウスなどもそう。通称「27クラブ」だ。

 なので、僕も音楽をやっている時は、なんとなくだけれど「二十七歳」という年齢は意識していた。具体的に、なにをどうこうしていたわけではないのだけれど、まるで何かのタイムリミットのように、「二十七歳までには、音楽で何かを成し遂げたい」と、ぼんやりと思っていた。ぼんやりしすぎて何も成し遂げられなかったのだけれど。

 そして、そんな時間も過ぎ去り、今そこにある危機、というかもう目の前に迫っているのが、「三十四歳」だ。なにをそこまで? とお思いの方もいるだろう。僕もそう思う。でも、高校三年生、十八歳のときに読んだある小説の一場面が、ずっと心のどこかにこびりついている。以下に、その場面を引用しよう。

「心配しないで大丈夫よ」と彼女が言った。「このおじさんは冗談もうまいし、気のきいたことも言ってくれるし、女の子には親切なの。それにお姉さんのお友達なの。だから大丈夫よ、ね?」
「おじさん」と僕は唖然として言った。「僕はまだおじさんじゃない。まだ三十四だ。おじさんはひどい」

でも誰も僕の言うことなんか聞いていなかった。彼女は女の子の手をとって玄関に止まったリムジンの方にさっさと歩いて行ってしまった。ボーイはサムソナイトをすでに車の中に積み込んでいた。僕は自分のバッグを下げてその後を追った。おじさん、と僕は思った。ひどい。

  村上春樹ダンス・ダンス・ダンス」の一場面だ。僕はこの小説を十八歳のときに読んで、三十四歳の人が「おじさん」と言われただけで、こんな反応をするものなのか、と首を傾げた。当時の僕からすれば「三十四歳」とは、個人差こそあれ、それはもう「おじさん」だった。けれど同時に、これから先の人生で「おじさん」呼ばわりされたとき、三十四歳までは、こういう反応をしても良いのだろうな、とも思った。

 そんなこんなで、「三十四歳」という年齢は、僕にとっての「おじさん/非おじさん」の分水嶺的なものになった。特に三十歳になって以降は、誕生日が近づくたびに、まだ「ダンス・ダンス・ダンス」の主人公のように主張しても良いのだ、と半ば自分に言い聞かせて心の平静を保っていた。なのに! とうとう、その歳がやってくる! やってきてしまう! どうして俺が三十四歳なんかにならなくちゃいけなんだ! 何も悪いことはしてないのに! と、思わないでもないが、そんなことを考えていても仕方がないし、悪いことをしてきていないとも言い切れない(えっ)。

 ともあれ、なってしまうものは仕方がない。こうなったら堂々と「おじさん」として、若い芽を摘んでいくぞ! 「young sprout harvester」というタイトルで一曲作れそうだ。ニール・ヤング調で。作らないけど。

 冗談やで。

 

あの・・こんなんできましたケド。

あの・・こんなんできましたケド。