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読木読一朗 第三読「団地のナナコさん」〜夏100より〜

「セルフパブリッシング夏の100冊 2016」の中から、僕が読んだ作品を僭越ながら勝手に語るシリーズです。

 第三回は、こちら。

団地のナナコさん (新潟文楽工房)

団地のナナコさん (新潟文楽工房)

 

 昭和50年代の真っただ中、国鉄民営化前夜の夏。
逆上がりが苦手だった小学4年生の私は、引っ越してきた国鉄職員団地で、孤独で知的で「猫になりたい」と願う不思議な少女と出会った。
生と死。
信頼と裏切り。
無邪気で残酷だった、あの少年時代の思い出は果たして何だったのだろうか?
「現代の怪談・民話」をコンセプトに紡がれる物語の結末には何が待っているのか?

「鉄道のまち」新潟県・新津を舞台にした、昭和と平成の2つの時代をつなぐ「祈り」と「救い」のファンタジー中編小説。

  ものぐさなので、あまり実家に帰らない。一年に一回帰れば良いほうだ。と言いつつ、最後に帰ったのは確か2014年5月だっただろうか。

 帰るたびに何かが新しくできていたり、何かがなくなっていたりする。寂しい、とはあまり思わないが、自分の知っていた景色がなくなってしまうことに対して、思うところはある。(寂しいです)

 最近だと、市営球場がビッグスワンみたいになっていたのには驚いた。中学時代、塾に行くために自転車で通っていた道に、それはあった。真面目に勉強する方ではなかったのに、先に通っていた同級生が、「二中の可愛い女の子がいる」というので、その口車に乗せられて入ったのだ。(可愛い子はいなかった)

 北海道でいえば大泉洋、青森でいえば伊奈かっぺい、といったローカルタレントも、僕が住んでいた頃は、鈴木えーもん(もしくはお笑い集団NAMARA)だったが、今はヤンさんという人らしい。

 そもそも、僕の故郷は2005年に市町村合併で、新潟市に取り込まれてしまった。だから、僕の生まれ育った「新津市」という名前は、今はもうない。

「団地のナナコさん」は、そんな僕の良く知る新津市が舞台の物語だ。時代設定は、昭和五十年代。僕が生まれる前だが、読んでいくうちに知っている景色が出てきた。そのうちのいくつかは、今はもうない景色たちだ。

 建物や道、そして名前。残るものもあれば、消えていくものもある。当然だ。むしろ消えていくからこそ、新しいものが生まれてくる。そうして前に進んでいく。そうやって掴んでいったものばかりなのだ。でも、そんな風に手放していったものを、忘れないでいることは、難しい。手放したもののことは、大抵、憶えてやしないのだ。

 ただ、子供の頃の記憶は、ふとしたことで思い出す。思い出せるということは、忘れてはいないということだと、僕は思う。なにもかも思い出せなくなったときが、本当に忘れてしまったときだ。そして、それは死に近い。

 消えていってしまったものが尊いわけではないだろう。また、残ったものが偉いわけでもないだろう。僕は、この物語の中で、消えていったものと残ったものを読みながら、自分の周りで消えていったものと残ったものに、想いを馳せた。

 季節的にもぴったりなので、是非。

natsu100-2016.tumblr.com

 

読木読一朗 第二読「サツジンパンプキンヘッド」〜夏100より〜

「セルフパブリッシング夏の100冊 2016」の中から、僕が読んだ作品を僭越ながら勝手に語るシリーズです。

 第二回は、こちら。

サツジンパンプキンヘッド

サツジンパンプキンヘッド

 

第三次世界大戦からおよそ500年。
あらゆる生命が失われた世界で、人類はわずかに、シェルターの中で生き続けていた。

その閉鎖空間の中で、おぞましい連続殺人が発生する。
被害者たちに共通していたのはただ一つ「誰かから恨まれていた」ということだけ。
人々は、こう噂した。
「パンプキンヘッドという神様が、正義のために殺人をしてくれてるのだ」
パンプキンヘッドとは何者なのか、そして、その背後に隠された悪意とは——

SFの世界観で繰り広げられる長篇サスペンス小説。

※残酷な描写が含まれます。

 

  基本的に、オカルトの類は信じないほうだ。似非科学や幽霊の類はもちろんのこと、葬式や墓参りまで。ただ、フィクションで楽しむのは好きだ。ちょっと大仰になってしまうが、そこには人間の想像力というか、願いとか祈り、みたいなものがあると感じる。といっても、そう考えるようになったのは二十歳を少し超えてからのことだ。

 今のズボラな性格からは自分でも想像できないが、子供の頃は潔癖症だった。他人が口を付けたものは絶対に食べられなかった。ものすごく汚いと感じていた。自分の親に対してさえ、そう感じていた。

 それに、お化けが怖かった。幽霊も怖かった。子供なのだから当たり前なのだが、ちょっと度を越していたようだ。両親も呆れ半分、心配半分だったように思う。

 さすがにこのままではマズイと感じたのだろう。折に触れて、矯正された記憶がおぼろげながらある。もちろん、暴力的なものではない。その甲斐あってか、小学校に上がる前までには、そういった面に関しては、なんとか平均的になった。

 今思うと、少し不思議だ。一体何がそんなに怖かったのだろう。たとえば、身体的な危険に対する恐怖というのは、後天的なものはもちろん、本能的に備えてい ると思う。けれど、幽霊が怖い、というのは、どこからきた恐怖なのだろう。自然と学んでいくものなのだろうか。それとも、これも本能的なものなのだろう か。もし、本能的なものだとしたら、それは逆説的に幽霊の存在を証明していることになるのだろうか。

 

 色々と書いたが、「サツジンパンプキンヘッド」はSFだ。強いて分類するなら、ディストピアものだろうか。遠い未来、閉鎖されたシェルター(イメージ的にはコロニーの方が近いだろうか)の中で、殺人事件が起こる。そして、それはパンプキンヘッドという神様が行っているという。遠い未来の世界で、現代よりも科学の発展している世界でも、人々はそんなオカルトを口にしている。

 僕は小説を読んで感じる、皮算さんの人間に対する視線が好きだ。それは以前に読んだ「魔法中年!」でも感じられた。優しくも、ときにシニカル。そして今作では、身体的にも精神的にも残酷で凄惨な物語が綴られる。SFで、サスペンスで、ホラーの要素もあるのに、読後感はなんともいえない趣がある。考えさせられるからだ。

 遠い未来の話だが、神社などが出てくる世界観も面白かった。どれだけ科学が発展しても、オカルトの類はなくなりはしないのだろう。良いか悪いかではなく、それが人間なのかもしれない、と思った。

 ありきたりな言葉だけれど、人間が一番怖い。子供の頃の自分に教えてあげたいけれど、さすがに大人げないか。

読木読一朗 第一読「フリーズドライ」〜夏100より〜

「セルフパブリッシング夏の100冊 2016」の中から、僕が読んだ作品を僭越ながら勝手に語るシリーズです。

 第一回は、こちら。

フリーズドライ

フリーズドライ

 

  そう感じる。
 ――いつの時も、それが僕の大問題。

 18歳の祥平は中学生の時に受けた傷をきっかけに無気力のかたまりとなったひきこもり。
 そんな彼をなかば強引に外へ連れ出したのは『拝み屋』の伯父だった。
 オカルト性ゼロの青春小説。長さは400字詰め原稿用紙で80枚程度です。  

 

 若い時には、それなりに万能感があった。その気になればなんだって出来るし、どこへだって行けると思っていた。それが、歳を重ねるにつれ、だんだんと勘違いだと気づいてくる。挫折、なんて大げさなものではない。むしろ、そっちのほうが良いくらいだ。

 何もできないしどこへも行けないのは、万能感の裏返しでもある。

「その気になれば、なんだって出来るし、どこへだって行ける」

 けれど、することがないし、行く場所がない。やるべきこともなければ、行くべき場所もない。縛られていない、自由な状態とも言えるかもしれない。でもそれゆえに、何もできない。

 そして、その気になれば、というのは「それなりの労力を払えば」ということで、そんな労力を払ってまで、したくもないし行きたくもない、と気づいてしまうのだ。

 たとえば、1000万円ほどあれば、いろいろなものが買える。多くの人にとって、その気になればどうとでもなる金額だろう。そんなことはない、と思うだろうか。でも、10年、もしくは20年かければ、無理な話ではない。実際、世の中には、いわゆるお金持ちでなくとも、そのくらいの買い物をする人はいる。

 ただ、人生それだけではない。一切脇目も振らず、それだけにお金と時間を費やすことは難しい。家族や恋人、それなりの生活。それらを放棄してまで、欲しくはないのだ。

 雨之森散策「フリーズドライ」は、中学時代のとある出来事がきっかけで、無能感に苛まれている18歳の少年の物語だ。劇的なことが起こるわけではない。怪しげな活動を行っている叔父に誘われ、彼は狭くはあるが、確実に外の世界へと連れ出される。

 彼は、自分の人生を「とりあえず保留」としたまま過ごしている。そして、自分にとって万能感の象徴だったものが、ただの物体に過ぎないと気づき、万能感そのものが、幻想だったことに気づく。いや、とっくに気付いていたことを、思い出すのだ。

 ラストの主人公のセリフに、僕は心を奪われた。月並みな表現だけれど、後ろから頭をガツンと殴られたような衝撃だった。

 短い物語だけれど、ゆっくりと読んでみて欲しいと思う。

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夏の匂い

 どうやら、ようやく梅雨が明けたらしい。僕の髪はくせっ毛なので、湿度の高いこの時期は昔から本当に嫌だった。クリンクリンというか、キューピーちゃんみたいなる。

 ここのところ、涼しい日々が続いていたけれど、これから本格的に暑くなっていくのだろうか。梅雨明けは嬉しいけれど、作業部屋にはエアコンがないので、少し不安だ。

 この時期の、日が沈むか沈まないかくらいの時間帯の匂いが好きだ。僕にとって、この匂いが夏の匂いだと感じる。照りつけていた太陽が弱まって、アスファルトに蓄積した熱の余韻と、ほんのりと湿った空気の匂い。この匂いを嗅ぐと、子供の頃に行った夏祭りの情景が浮かんでくる。あぁ、夏の匂いだな、と思う。

 ちょっと前に書いた長編小説の手直しを最近している。確か初稿はもう去年の10月くらいには上がっていたと思う。その頃はツイッターで『秋の夜長』という掌編を発表していた。この長編の息抜きに書いていたんだった。

 第1章が、ちょうど夏休みの場面なので、読み直すには良い時期だった。物語自体は、とても暗いものだけれど。どうしてこんな物語を書いてしまったのだろうか。思い浮かんでしまったから、外に出した、というだけだろうか。

 

 そういえば、こんな本が出ています。

もの書く人々

もの書く人々

 

ひとはなぜ「書く」のか?

書くひとたちに直撃取材をしたインタビュー&対談集。
アイヌから利己的な遺伝子まで、思わぬほうへ話題が転がっていく。
ものを書くひとびとの情念を感じる一冊。

 

  牛野小雪さんと僕の対談(?)が載っています。牛野さんとは同い年で、実は密かに意識してました。最初は「リレー小説とかどうですか?」というお話だったのですが、僕らは全然作風も違うので(笑)、お互いに様子を見ながら何日かに分けてネット上でお話をしました。お話をしてみると、やっぱり僕らは真逆で、正反対で、でもそれが、とっても面白くて、柄にもなく熱い対談になったと思います。

夏風邪

 

 夏風邪をひいた。多分、エアコンのせいだと思う。暑いのも寒いのも嫌いで、基本的に冷暖房はすぐつける方だ。最近も暑いし雨が降れば蒸すしで、冷房をつけていた。

 家では問題なかったと思う。でも職場が悪かったのかもしれない。ずっと空調の調子が悪くて、空気が悪かった。薄っすらと喉痛いな〜、と思ったらまんまと風邪をひいた。

 寝込みはしなかったけれど、辛かったので風邪薬を飲んでいた。眠くなるし、体も弛緩する。はやく治したかったので、ベッドに入りiPadで映画を見ながら寝ていた。

 集中できないので小説は書いていなかった。意外なことに(?)、書かないと僕の生活は結構暇だ。本もたくさん読んだ。面白い小説は、やっぱり多い。つまらなかった小説って、数えるほどしかない。まぁ、面白かった小説も数えるほどだけれど。つまり、数え切れないほどは、まだ読んでいない。

 

 ただ、世の中には、数えきれないほどの小説があるらしい。あるらしい、というかある。本屋に行けば一目瞭然だ。いや、書店の本は数えられるか。じゃないと棚卸しできないし。でも、この世には、数え切れないほどの小説がある。その中から、どうやって面白い小説を探せば良いのだろう。時間もお金も限られている。できればハズレはひきたくない。

 でも、面白いものを探していれば、面白いものに出会えると、僕は思う。だいたい、つまらないものを引いてしまうのは、つまらないものを探しているからなのだ。

「よぉし、ちょっと一言物申してやろ〜」みたいな態度で臨んでいれば、そりゃつまらないだろうと思う。そういう態度で、お笑い芸人の人が書いたものとか、話題になった人の手記とか読んでしまえば、面白さは陽炎のように消えるだろう。そういう読書はあまりオススメしないな〜(個人の自由ですが)。

 

 こんなものが最近出た。

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 セルフパブリッシング本の内容紹介が100冊分載っているらしい。本屋さんに、よく置いてあるやつの電子版だ。対談なんかも載っているらしい。

 数撃ちゃ当たる、ってわけではないだろうけれど、パラパラと眺めてみるだけでも、面白いかもしれない。無料なので、とりあえずダウンロードしておいて、暇なときにパラパラと捲ると良いと思う。いや、暇なときって意外と出会いないですか? 夜中に適当にテレビのチャンネル回してたら映画やっていて、途中からだけどなんとなく見ていたら意外と面白くて、そんでラテ欄でタイトル確認して、後日ツタヤで借りる、みたいな。

 

夏の魔物: Out of Standard

夏の魔物: Out of Standard

 

  僕は夏なので、コレを乗せてもらいました。

何もしていない

 最近何もしていない。

 休日もダラダラと過ごす。最近はなにかとハードで、ほとほと疲れ果ててしまった。

 だから何もしていない。

 

 何もしていないのは、結構気分が良い。

 

 何もしていないから、体力が蓄積されていくのが自分でわかる。この二日で、すっかり体調が良くなってしまった。眠るのにも疲れてしまって、起き抜けにアイスコーヒーを飲み、近所を軽く散歩する。血が巡り、頭が冴えてきて、少しだけ本を読む。ご飯を食べる。少し眠くなるので、眠る。

 

 夕方ごろ目を覚ます。さすがに眠りすぎたのか、頭がうっすらと痛い。またコーヒーを飲む。目薬をさす。目が覚めてくる。最近は、プロットというか、小説のアイディアを書き留めるときに、紙のノートと鉛筆を使う。HBとBはどっちが硬いんだっけな、と書き比べる。よく判らない。

 

 先々週は、高校の時の友人Aが、新潟から遊びに来た。東京の本社で研修があったという。同じく高校時代の友人Tが神楽坂に店を開いたというので、 二人で遊びに行った。夕方にはおいとまする。出来たばかりのバスターミナルが見たいというので、新宿へ。「ウォーリーを探せ!」のウォーリーの格好をした人が、ユーミンの「やさしさに包まれたなら」を歌って いた。ストリートミュージシャンだ。声質も良く、ギターも上手だ。しばらく二人でその演奏を聴いていると、通りすがりの女性二人が「上手だけど、あのキャラで売れたら、それはそれで大変そうだよね」と話していた。僕は「そうだよな」と「余計なお世話だろ」が半々。友人Aは「早く飲みにこうぜ」と言った。

 キリンシティで少しだけ飲んだ。帰り際、友人Aが「そういえば、あいつのこと知ってるか?」と聞いてきた。あいつとは、これまた高校時代の友人Kのことだ。

「なんかあったの?」

「ガンになったらしい」

 友人Tとは、高校の三年間同じクラスで仲が良かった。昨年には子供も生まれている。

「まぁ、お前も仕事忙しいかもしれないけど、一緒にお見舞いにいこうぜ」

「あぁ、うん」

 少しだけ、引っかかった。“お前も仕事忙しいかもしれないけれど”とは、どういう意味だろう。疲れているように見えただろうか。お見舞いには、まだ行けていない。

 

 今年度から、オフィスが新宿になった。毎朝毎晩、西口を通る。

 

 広場では、毎朝毎晩、政治家や活動家の演説が繰り広げられている。都知事のこと、消費税のこと、少子化のこと、原発のこと、アフリカに小学校を建てていること、震災募金、アグネス・チャン、多分これからは、参院選のこと。

 そのすぐ隣には、喫煙所があって、大人たちがタバコを吸っている。わりと広めの場所のはずだけれど、人が多すぎて、入りきっていない。それでも、みんなお構いなしに吸っている。当然、吸殻だらけだ。都なのか区なのか、はたまた民間なのかは判らないが、時折清掃している人たちもいる。

 

 毎日、その光景を見る。何もせずに、通り過ぎる。

 

 今朝も、新宿に向かう。雨だから、広場では何もやっていないだろう。

 電車が、到着のアナウンスを告げる。

「まもなく、新宿です。山手線、埼京線湘南新宿ライン小田急線、京王線、地下鉄丸ノ内線都営地下鉄新宿線都営地下鉄大江戸線は、お乗り換えです」

 改めて聞くと、その路線の多さに驚く。

 どこへでも行けるじゃないか、と思った。

 

 

網戸

 梅雨入りしたのだろうか。最近は雨が多い。先週あたりはやけに暑くて、初夏を通り越して夏が来たな〜、という感じもあったけれど、今年もこの嫌な季節は避けられないようだ。

 家に帰ると奥さんが夕食を作ってくれていた。トマトカレー。水の代わりにトマトの水煮缶を使う。それだけなのだけれど、美味しかった。

 奥さんの実家ではカレーのルーは「こくまろ」を使っていたらしいけれど、僕はジャワカレーの中辛が好きだと言ったら変えてくれた。僕はカレー自体がとても好きなので、嬉しい。

 辛いものを食べると暑くなる。今夜は室内干しの洗濯物のせいか、ひどく蒸すので、網戸にして外の空気を入れる。雨は上がっているので、夜のひんやりとした空気が入ってくる。

 それでもまだ少し暑かったので、ベランダで涼んだ。網戸越しに奥さんが見ているテレビの音が聞こえる。相変わらず下世話なニュースばかりで辟易とするけれども、別に今に始まったことではない。きっとこれからもそうなのだろう。

 まだ今の家に引っ越す前、一人暮らしをしていたころ。駅までの通り道に、テレビを大音量で流している御宅があった。夏場はいつも網戸だったので、表までくっきりと音が聞こえる。

 一人暮らしのときはテレビを持っていなかったので、奥さん(当時は彼女)と駅前のスーパーで買い物をした帰り道など、冗談交じりに、「ちょっとテレビでも聴いていこうか」などと言って、その御宅の前の道を通っていた。

 

 若い頃は、自分の人生は最終的に一人で生きて一人で死ねたら良いな、と思っていた。一人暮らしはともて快適で、自分一人を食わせていれば後は自由。だんだんと世間とのしがらみを切っていって、最後の最後には、一人で、自由に、死んでいけたら、とても素敵だと思っていた。

 今もその考えの大部分は、あまり変わっていないけれど、「一人で」の部分には校正が入っている。

「結婚のきっかけはなんですか?」

「何が決め手ですか?」

 と、少なからず訊ねられる。うるせーなw、と思いながらも、

「まぁ、なんというか、押し切られまして〜w」と答えている。(ひどいw)

 

 そんな恥ずかしいこと真面目に答えられるかコンニャロー。

 


【Trailer Vol.1】Our Numbered Days

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