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日常が続いていくということ

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 日常が続くということ、に対して若い頃は当たり前に受け入れられなかったけれど、この歳になるとそうでもなくて、そういうことの価値を判るようになったというか、自分の楽しみは日常の中に、その延長線上というか、それを抜けた先にあるというのが判ってくる。というより、日常が脅かされると、途端に自分のやりたいことや楽しみにしていることが出来なくなって、それはつまり、単に仕事が忙しいとか体調を崩してしまったりとか、そういうことなのだけれど、だから日常が続いている、続いていくということの価値をいまは理解している、というより若い頃は誤解をしていたのかもしれない。

 

 安穏な、終わらないと思っていた日常が、なんの予告もなしに突然、それも理不尽なかたちで終わってしまうことは、昨今のニュースを見れば判ることで、地震、雷、火事、通り魔、テロ、台風その他の自然災害、事故、etcと様々ではあるけれど、どれもいつか自分の身に降りかかる可能性があり、娘が生まれた今となっては自分の身を守るだけではなく、むしろ子供の安全まで、自分の守備範囲を広げなくてはならなくなった。まぁ、それ自体は別に構わない。

 

 ただ思うのは、そうやっていとも容易く日常というのは終わってしまい、その後、運良く生き残れたとしても、なんてことのない日常を取り戻すには、とてつもない労力がかかる。この前、季節外れの風邪をひいて、それが一週間以上長引いた。風邪ですら、そうなのだ。

 

 なんの話かといえば、なんの話でもないのだけれど、僕が好きな京アニ作品は、やっぱり「けいおん!」で、自分も昔バンドをやっていたから、というのもあるのだけれど、バンドあるあるに頷いたり、思わず「えっ?」と思う場面に遭遇したり(マラソン大会のあと、お汁粉飲むか普通?)、いわゆる「日常系」というジャンルをそれまではあまり理解していなかったのだけれど、テレビシリーズと劇場版を何度も観て(そう、何度も観た)、時に涙したり、ちょっと凹んだりしていた。この「凹む」ってのは、いい意味で(いい意味?)、打ちのめされるというか、そんな感じなのだけれど。

 

 ネタバレかもしれないけれど、劇場版では、唯が梓のために作る曲を「壮大な、先輩らしい、カッコいい曲」にしようとあれこれ考える。考えるうちに、ふと閃くというか何かが頭をよぎるのだけれど、それが何かはわからない。けれど彼女らの楽曲「ごはんはおかず」をキーワードに「いつもの自分たちらしい曲で良いのだ」と気がつく。ホテルの部屋で、この曲の歌詞の英訳を話していたあと、イベントでこの曲を演奏したあとなどに、気がつく。ごはんはおかずだと。

 

 劇場版では、彼女らは卒業旅行でロンドンに行く。他にも3つほど候補があったのだけれどあみだくじ的な(部室で飼ってるカメに選ばせる)方法でロンドンに決まる。その前日談である「けいかく!」の最後、他の候補地に行けなくて残念だね、というと唯は、梓の卒業旅行で他に行けば良い、と言う。そして、大学の卒業旅行と、翌年にあるであろう梓の大学の卒業旅行でも行こうという。そうすればほかの3つの候補地も行ける。「私たち、どこにだって行けるよ」と。

 

けいおん!」は唯たちの卒業で物語の幕を閉じたけれど、彼女たちの日常は続いていく。それを示唆しているような足元のカットで映画は終わる。

 

 日常が続いていけば、いずれどこにだって行ける。日常が続いていくということの価値は、きっとそこにある、と僕は思う。

 

 だから一日でも早く、日常を取り戻してほしい、なんてことは言えない。言えないというか、無責任な気がして憚られる。取り戻せないものもあるからだ。自分に何が出来るのか判らないし、何かが出来るとも思えない。けれど待っていようと思う。何かができるときには何かをしようと思う。作品を通じて、またどこかに連れて行ってほしいと思う。きっと、どこへだって行けるのだから。