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夏が終わる

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 最後の最後の三十一日。本当に八月と共に夏が終わるかのごとく、涼やかな日になった。

 お盆の終わりくらいに、森先生がお盆について軽く言及しているのをブログで読み、「確かに確かに」などと思っていたら、偶然に近所の家の前に茄子の午ときゅうりの馬が飾ってあって、うっかり蹴飛ばしそうになって、「こんなシチュエーション前にもあったな」なんて思った。前回のブログにも書いたけれど、そういう場面を描いたのだった。

 そこから思い至って、二年前の2015年8月に出した短編集『夏の魔物』の連載というか再掲載というか、そんなことをやってみたのでした。

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 僕も子供の頃、小学校高学年くらいまでは、お盆には親戚の家に行って、お墓参りをしたりもしていた。いつの頃からか行かなくなってしまったけれど(お金のことで一悶着あったらしい。そういう大人の事情があるということは理解出来るくらい成長してはいたけれど、それが具体的になんなのかが判るほど大人ではなかった)、あの頃は子供心に、ご先祖様の霊とかお墓参りとか、どう解釈していただろうか。小学二年生くらいのときにはすでにサンタクロースがいないことを理解してたので、霊がいないことことかお墓参りに本質的な意味はないことくらいは判っていたと思う。けれど、要は年に数回、離れて暮らしていても親戚同士顔を合わせましょう、そういうときに子供たちが茄子の牛とかきゅうりの馬とか作ってたらなんとなく楽しいでしょ、誰も本気で信じちゃいないけれど、こういうものはいわゆる方便の一種で、整合性とか気にせずに、なんとなくやりましょうよ、的なことなのかな、と思っていた。もちろん子供だったので、薄ぼんやりと、ではあるけれど。

 夏の海にも、もう何年も行っていない。父親が海が好きで、ただいるだけで充実したような表情を浮かべる人だったけれど、僕にはまだそれは判らないし、人とゴミでいっぱいの場所に出かけたいとも思わない。でもまぁ、海は好きかな。

 特に夏らしいことを毎年するわけでもなく、何か夏という季節に楽しみを見出しているわけでもないのに、夏がなんとなく好きだと感じるのは、自分が生まれた季節だからなのかな、とも思うけれど、これも可笑しな話で、生まれた瞬間のことは覚えていないし不思議だけれど、まぁ、こういうのは整合性とか気にせずに、なんとなく感じておこうかなと思う。

 そういえば今年の誕生日、僕は仕事だったのだけれど、奥さんは休みだった。どこかへ出かけていったから、それとなく尋ねてみたら、友達が働いているカフェ(?)が陶芸のワークショップ(?)をやっているらしく、それに参加してきたという。対の茶碗を作ろうと思ったけれど難しかったからビールマグにしたという。ふむふむ、これも似たような話をどっかで読んだな。奥さんには読ませていないんだけれどな。まさにラララライフ。

 

 今年は、そんな夏の終わりでした。