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久々に無料キャンペーンをやります。

 ということで、こちらではお久しぶりです。

 みなさんいかがお過ごしでしょうか。王木亡一朗です。

 すっかり寒くなってきましたね。もうすぐ冬本番。今年も残すところ、あと一ヶ月となりました。早いものですね。2019年という響きにやっと慣れてきた頃なのに。もう2020年ですって。ミレニアムがもう20年前! そのうち新しい年に慣れないうちに一年が終わり、ただただ通り過ぎてしまうだけになってしまうのでしょうか。まさに「All Things Must Pass」ですね。


George Harrison - All Things Must Pass

 

 そんなこんなで(?)、先日、文学フリマ東京に行ってきました。文学好きの有象無象がひしめき合っている(言葉悪くない?)のを見て、自分の中の何かが感化されてしまい、なんだかいてもたってもいられなくなってしまいました。気になったものはとことん買うぞ! の精神で挑みました。お会いしたかった方々ともお話できてよかったです。

 ということで、脈絡がないようにも思えますが、下記二作品の無料キャンペーンを27日まで実施します。実際はアメリカ時間なので28日の17時までです。

 無料キャンペーンに関しては色々と思うところがあって、あんまりやらない派なので、この機会にぜひとも。

 

Our Numbered Days』

ひょんなことから、奥さんの家族と同居することになった元バンドマン。 孤独だった彼の新しい家族との悲喜こもごも!
みんなで暮らすのは楽しいけれど、この家族、やっぱりちょっと変!?

第1話 Smells Like Teen Spirit
第2話 Carry That Weight
第3話 She’s Thunderstorms
第4話 Don’t Look Back In Anger
第5話 Further Complications
第6話 Killer Cars
第7話 Spit On A Stranger
第8話 The Queen Is Dead
第9話 Bitter Sweet Symphony
第10話 I Am The Resurrection
王木亡一朗のネオ家族小説!

Our Numbered Days

Our Numbered Days

 

 

anyone can play guitar/I Think Ur A Contra: sequel to our numbered days』

2016年6月に刊行したネオ家族小説「Our Numbered Days」の後日談です。
発表から3年経ち、ふとしたことから、続編を書いてみようと思い、書いた作品です。
noteで連載した「anyone can play guitar」と書き下ろしの「I Think Ur A Contra」というお話の二本組みです。
単体でも楽しめるように配慮したつもりですが、やはり本編の「Our Numbered Days」を読んでいただいていた方が楽しめると思います。
二つ合わせても2万字くらいの短い作品です。

 

 ちなみに最新作的なものは、noteなのでほぼ月一連載している『サインカーブに浮かぶ日』という小説です。

note.com

 ではでは。

世界の書斎から

 こちらではお久しぶりです。王木亡一朗です。

 とある事情から引っ越しました。広い家に。ということで、移転に伴うネットの開通工事が遅れに遅れ(そもそも俺が連絡するのが遅かったんですが)、やっとこさネットが繋がるようになりました。いやー、長かったエイペックスレジェンズも一週間以上お預けですし、家のWi-Fiもないので、ネトフリやYouTubeなどの動画も楽しめず。苦しい一週間だった……。やっぱりネットがつながらないとダメです。ネット依存症です。

 そんなわけで、書斎のレイアウトを変えました。書斎というか、ただの自室ですけどね……。新しく買ったのは本棚くらいで、他の家具は前の家で使っていたものです。リビング系の物も新調していたので、旧リビング家具を僕の部屋で引き取ったというか。

 

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 机周りはこんな感じ。左側がパソコンで、右側が手書きスペースみたいな感じに。手書きなんて全然しませんが。そうそう、ヘッドフォンハンガーを新しく買いました。やっぱりあると便利です。今までは良くて机の上、大体は床に置いてありましたからね(イヤフォンが床に落ちてるのは、たまたまです)。

 

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 机の左側はこんな感じで、小さなノートなら広げられます。ペン立てがごちゃごちゃしているのはご愛嬌。本棚を組み立てた時のドライバーが刺さってますね。アップル製品詳しい人だと、このリンゴマークの向きに違和感を覚えるはず。これはあとで説明します。

 

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そんで、デスクの前がこんな感じ。あえてこの配置にして空間を区切ってます。なんだか、今回の王木ブログはCasaっぽくないですか? あんまり読んだことないんですけど。というか、このレイアウト、見る人が見たら「アレじゃね?」と思うかもなんですが、元ネタはアレです。この記事の最後にヒント書いときますね。

 

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機材は今はこれで足りてます。左から、ミキサー、リバーブ。下の黄色いのはオーバードライブ。ミキサーが1chにしかゲインが付いてないので、2chのボリュームを稼ぐために繋いでます。厳密に言うといろいろとアレなんでしょうけど、まぁ良いかなというか。こいつらも前までは机の上に乗ってたので、この台も手書きスペス確保に役立ってます。手書きなんて滅多にしませんが。

 

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リンゴマークの向きですが、こんな感じで、ソファ側からMacをいじれるように、あえてこの向きなんです。こっち側からだったら、王木レディオ収録とかでGarageBandを使うくらいなので、長時間キーボードを打つとかはないし、録ったあとの編集はデスク側からやれば良いので、ソファ側からはRキーとかスペースくらいしか押さないだろうし、トラックパッドもあるので充分かなと。奥様に「こっち(ソファ側)からもパソコンいじれるんだよぉ」と言ったら「横着なヤツだねぇw」と言われました。なんというか、ちびまる子ちゃん的なノリで。うちの奥様は毎週録画して観ています。

 

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新調した本棚。ある程度、引っ越し前に整理したのに、すでに入りきっていませんね。床に平積みされています。もう紙の本は買えないというか、今あるものと入れ替えになりますね。雑誌のスペースを工夫すれば、あるいは……、と言った感じですが、雑誌こそ一度手放すと後から取り戻しにくいですからね。悩みどころです。

 

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 仕舞い込んでたギターを一旦、外に出しました。こいつらも、正直もうあんまり使ってないから、軽くメンテしたらまた仕舞おうかな。このスペースに新たな本棚を置くのも良いのかな、なんて考えてますが、部屋が狭くなるのもなぁ、というかキリがないしなぁ、と悩んでいます。そもそも、入りきってないのは本だけじゃなくて、CDとDVDもなんですよね。もっというとVHSとかもあるんですが、VHSはさすがに処分ですかね……。ビデオデッキが壊れてしまったので。昔、中古で保護したヴェンダースの初期作品とかもあるんですが、うちにあっても観られないからなぁ。

 

と言った感じで、自室紹介でした。

あ、そうそう、レイアウトは某国民的作家「MHさん」のお部屋を参考にしました。多分、「MH 部屋」とかで検索すると画像出てくるはず。数年前に、「Mさんのところ」という読者というか一般の人からの質問に答えるという企画をしていて、そのときの写真ぽいです。

 

いかがでしたか?

 

いろいろと捗りそうでしょ?

そんなこんなで、自室は良いぞ。お前らもローン組めよ、ハンコ押すだけだぞ。

 

あの・・もうすぐ三十四歳になるんですケド。

 

 もうすぐ三十四歳になる。具体的にいえば、8/30だ。同じ誕生日の有名人は、嵐の松潤井上陽水キャメロン・ディアスなど。錚々たるメンツである。まぁ、こんなことで威張っても仕方がないが。

 別に若さに執着があるわけではない。節目、などと特に意識しているわけでもない、と自分では思っている。厄年だとかジンクスだとか、そういったものを本気で信じているわけでもない。けれど、やっぱりどこかで意識はしていて、この「三十四歳」という年齢も、以前から頭の片隅に鎮座していた。

 思えば「三十四歳」以外にも、なんとなく意識していた年齢というのはあって、たとえば原田宗典の小説の影響で「十九、二十歳」なんて年齢には、過ぎ去ってしまった今でも、どこかノスタルジックな思いがある。新潟の実家を出て上京した年齢だというのもあるし、先輩から薦められて、まさにリアルタイム(?)で、この小説を読んだということもある。

 あと僕は昔、音楽というかバンドをやっていて、それはロックバンドだったのだけれど、ロックという音楽をやっている多くの人たち(最近は知らんけど)は、やはり「二十七歳」という年齢は多かれ少なかれ意識してしまうと思う。これは「ロックの厄年」などと言われていて(誰に?)、ジミ・ヘンドリクス、ジム・モリソン、ジャニス・ジョプリンブライアン・ジョーンズカート・コバーンなどなど、ロック史に名を残したミュージシャンたちの多くが二十七歳で亡くなっている。最近(?)だと、エイミー・ワインハウスなどもそう。通称「27クラブ」だ。

 なので、僕も音楽をやっている時は、なんとなくだけれど「二十七歳」という年齢は意識していた。具体的に、なにをどうこうしていたわけではないのだけれど、まるで何かのタイムリミットのように、「二十七歳までには、音楽で何かを成し遂げたい」と、ぼんやりと思っていた。ぼんやりしすぎて何も成し遂げられなかったのだけれど。

 そして、そんな時間も過ぎ去り、今そこにある危機、というかもう目の前に迫っているのが、「三十四歳」だ。なにをそこまで? とお思いの方もいるだろう。僕もそう思う。でも、高校三年生、十八歳のときに読んだある小説の一場面が、ずっと心のどこかにこびりついている。以下に、その場面を引用しよう。

「心配しないで大丈夫よ」と彼女が言った。「このおじさんは冗談もうまいし、気のきいたことも言ってくれるし、女の子には親切なの。それにお姉さんのお友達なの。だから大丈夫よ、ね?」
「おじさん」と僕は唖然として言った。「僕はまだおじさんじゃない。まだ三十四だ。おじさんはひどい」

でも誰も僕の言うことなんか聞いていなかった。彼女は女の子の手をとって玄関に止まったリムジンの方にさっさと歩いて行ってしまった。ボーイはサムソナイトをすでに車の中に積み込んでいた。僕は自分のバッグを下げてその後を追った。おじさん、と僕は思った。ひどい。

  村上春樹ダンス・ダンス・ダンス」の一場面だ。僕はこの小説を十八歳のときに読んで、三十四歳の人が「おじさん」と言われただけで、こんな反応をするものなのか、と首を傾げた。当時の僕からすれば「三十四歳」とは、個人差こそあれ、それはもう「おじさん」だった。けれど同時に、これから先の人生で「おじさん」呼ばわりされたとき、三十四歳までは、こういう反応をしても良いのだろうな、とも思った。

 そんなこんなで、「三十四歳」という年齢は、僕にとっての「おじさん/非おじさん」の分水嶺的なものになった。特に三十歳になって以降は、誕生日が近づくたびに、まだ「ダンス・ダンス・ダンス」の主人公のように主張しても良いのだ、と半ば自分に言い聞かせて心の平静を保っていた。なのに! とうとう、その歳がやってくる! やってきてしまう! どうして俺が三十四歳なんかにならなくちゃいけなんだ! 何も悪いことはしてないのに! と、思わないでもないが、そんなことを考えていても仕方がないし、悪いことをしてきていないとも言い切れない(えっ)。

 ともあれ、なってしまうものは仕方がない。こうなったら堂々と「おじさん」として、若い芽を摘んでいくぞ! 「young sprout harvester」というタイトルで一曲作れそうだ。ニール・ヤング調で。作らないけど。

 冗談やで。

 

あの・・こんなんできましたケド。

あの・・こんなんできましたケド。

 

 

 

日常が続いていくということ

 日常が続くということ、に対して若い頃は当たり前に受け入れられなかったけれど、この歳になるとそうでもなくて、そういうことの価値を判るようになったというか、自分の楽しみは日常の中に、その延長線上というか、それを抜けた先にあるというのが判ってくる。というより、日常が脅かされると、途端に自分のやりたいことや楽しみにしていることが出来なくなって、それはつまり、単に仕事が忙しいとか体調を崩してしまったりとか、そういうことなのだけれど、だから日常が続いている、続いていくということの価値をいまは理解している、というより若い頃は誤解をしていたのかもしれない。

 

 安穏な、終わらないと思っていた日常が、なんの予告もなしに突然、それも理不尽なかたちで終わってしまうことは、昨今のニュースを見れば判ることで、地震、雷、火事、通り魔、テロ、台風その他の自然災害、事故、etcと様々ではあるけれど、どれもいつか自分の身に降りかかる可能性があり、娘が生まれた今となっては自分の身を守るだけではなく、むしろ子供の安全まで、自分の守備範囲を広げなくてはならなくなった。まぁ、それ自体は別に構わない。

 

 ただ思うのは、そうやっていとも容易く日常というのは終わってしまい、その後、運良く生き残れたとしても、なんてことのない日常を取り戻すには、とてつもない労力がかかる。この前、季節外れの風邪をひいて、それが一週間以上長引いた。風邪ですら、そうなのだ。

 

 なんの話かといえば、なんの話でもないのだけれど、僕が好きな京アニ作品は、やっぱり「けいおん!」で、自分も昔バンドをやっていたから、というのもあるのだけれど、バンドあるあるに頷いたり、思わず「えっ?」と思う場面に遭遇したり(マラソン大会のあと、お汁粉飲むか普通?)、いわゆる「日常系」というジャンルをそれまではあまり理解していなかったのだけれど、テレビシリーズと劇場版を何度も観て(そう、何度も観た)、時に涙したり、ちょっと凹んだりしていた。この「凹む」ってのは、いい意味で(いい意味?)、打ちのめされるというか、そんな感じなのだけれど。

 

 ネタバレかもしれないけれど、劇場版では、唯が梓のために作る曲を「壮大な、先輩らしい、カッコいい曲」にしようとあれこれ考える。考えるうちに、ふと閃くというか何かが頭をよぎるのだけれど、それが何かはわからない。けれど彼女らの楽曲「ごはんはおかず」をキーワードに「いつもの自分たちらしい曲で良いのだ」と気がつく。ホテルの部屋で、この曲の歌詞の英訳を話していたあと、イベントでこの曲を演奏したあとなどに、気がつく。ごはんはおかずだと。

 

 劇場版では、彼女らは卒業旅行でロンドンに行く。他にも3つほど候補があったのだけれどあみだくじ的な(部室で飼ってるカメに選ばせる)方法でロンドンに決まる。その前日談である「けいかく!」の最後、他の候補地に行けなくて残念だね、というと唯は、梓の卒業旅行で他に行けば良い、と言う。そして、大学の卒業旅行と、翌年にあるであろう梓の大学の卒業旅行でも行こうという。そうすればほかの3つの候補地も行ける。「私たち、どこにだって行けるよ」と。

 

けいおん!」は唯たちの卒業で物語の幕を閉じたけれど、彼女たちの日常は続いていく。それを示唆しているような足元のカットで映画は終わる。

 

 日常が続いていけば、いずれどこにだって行ける。日常が続いていくということの価値は、きっとそこにある、と僕は思う。

 

 だから一日でも早く、日常を取り戻してほしい、なんてことは言えない。言えないというか、無責任な気がして憚られる。取り戻せないものもあるからだ。自分に何が出来るのか判らないし、何かが出来るとも思えない。けれど待っていようと思う。何かができるときには何かをしようと思う。作品を通じて、またどこかに連れて行ってほしいと思う。きっと、どこへだって行けるのだから。

ギターなんて誰にだって弾ける

 

 さてさて、相変わらず久々のブログ更新です。

 こんばんわこんにちわ王木亡一朗です。

 先日、王木レディオvol.24の放送が無事に終わりました。


#24 王木レディオ「コンビニ」

 今回のテーマはコンビニということで、お便り多めになっております。ありがとうございます。近況とか言って小説のこと全然話してないですね(笑)。プレミア公開にして二回目ですが、時間とかどうなのでしょう? 20時からとかの方がいいのかな? 次回以降、開始時間もちょっと調整してみます。

 次回のテーマは「初恋」です。何なんでしょうね? お便りは増えるのか減るのか!?

 まぁ、気軽に恋に関してのお便りや質問なんかをお送りください。

ws.formzu.net

 あと、放送でもいっていたアワナンの後日談というか続編ですが、出ました。

  7/7から無料キャンペーンを5日間実施します。無料って普段あんまりやらないのですが、二つ合わせて2万字くらいの短編ですし、続編というかDLCみたいなもんなので、今回は例外です。これを機に本編もどうぞ〜!

Our Numbered Days

Our Numbered Days

 

 

王木レディオの最新ニュース!

 

 ということで、こちらのブログではお久しぶりです。王木亡一朗です。本当に梅雨入りしたの? ってな具合の暑い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。

 先日、これまたお久しブリーフな王木レディオの放送がありましたが、もちろん聴いてくださいましたよね? 今まで生放送(live)に拘っていたのですが、なかなかタイミングがつかめなくて、今回から事前収録をしたうえでプレミア公開という手法を取ってみました。ライブ感を残そうと、ぶっちゃけ全然編集していまいせん。ほぼ撮って出しです。面倒くさいしね。


#23 王木レディオ「兄弟姉妹」

 初の試みということもあり、当日は僕自身もリアタイ(リアルタイムの略)で聴取していました。自分の番組に自分でコメント(チャット)するというのも変なもんですが、もともとセルフツッコミ(という名の予防線張り)がお得意なもんですから、特に違和感はありませんでした(なかったよね?)

 次回以降も、この手法(事前収録&プレミア公開)で、王木レディオを本格的に再開していこうと思います。次回のテーマは「コンビニ」です。第24回なので(ワラ)。

 お便りはメールまたは投稿フォームからお願いします。テーマに関するもの以外のものも募集中です。どしどしお寄せください。

ws.formzu.net

【お知らせのコーナー】

▼note連載

note.mu▼書籍版「王木レディオ」

王木レディオ

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Lost in Conversation

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 ▼コラボ

Mash Up!: セルパブミックステープvol.1

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 ▼季節商品

夏の魔物: Out of Standard

夏の魔物: Out of Standard

 

 ▼もうすぐ続編が刊行!

Our Numbered Days

Our Numbered Days

 

 

時事ネタ

 時事ネタに言及するという行為自体に、どちらかというと抵抗感がある。自分自身の下世話な野次馬根性みたいなものを自覚させられるし、上手いことというか、鋭いことを言ってやろう的な見栄だったり自意識だったり、とにかく『ダサい自分』の存在を見透かされそうで憚られてしまう。

 ただ、ときどき「まぁ、これくらいだったら言っても良いのかなぁ」と言及することはあるし、明るい話題であったりだとか、そうでなくても音楽とか映画とかそれこそ小説とか、そういうジャンルに対してなら、ちょっと言ってみるか、という気分にもなる。別に僕みたいな者がいちいち言わなければならないことなんてないのだけれど。

 2018年の1月に『ガールフレンド』という短編集を出した。その中の『小説ガヴァドン』という話が、ラノベタイトル風にざっくりとあらすじを説明すると、

『幼馴染の女の子が虐待されてるっぽいけど何も出来ずに小説書いてたらその子引っ越しちゃって、十数年後に結婚式に呼ばれて行ったらなんやかんやで解決してた件』

 とまぁ、こんな感じで、その1年後に、野田市の事件が起きた。

www.nikkansports.com

 これまた自意識過剰だと言われるかもしれないが、自分の小説の設定と類似点が多くて、まず驚いたし、『小説に書いたことが本当になれば良いのに』的なこともテーマというか題材のひとつだったので、自分勝手でそれこそ不謹慎だけれど、どこか他人事とは思えない事件だ。自分が書いているときに想像していた人物像と、報道から読み取れる加害者である父親のキャラクタが、どことなくリンクしてしまっている。自分の小説では、虐待をする父親を、とある病気ということにしたのだけれど、実際の事件の父親も、(種類は違うにしても)そうなのではないか、と思わずにはいられない。というか、そうとでも思っていないと、とてもじゃないけれど信じられない。奇しくも、僕自身が先々月に娘が生まれたばかりで、実の子に対して実の父親がこんなことをしてしまうのか、と。

 フィクションを書く自分の想像力が現実の前ではいかに浅はかなものなのか。事実は小説よりも奇なり、とは言うけれど、そんなことは当たり前で、現実の突拍子も無い荒唐無稽さは、フィクションには到底落とし込めないような気がしている。

はっきり言って、実際の事件の父親は正常な精神状態ではなかったように思う。こう書くと精神状態などを理由に責任能力が争点になり、結果的に罪に問われないケースなんかもあったりするので、賛否はあると思うけれど、個人的には、なんらかの精神疾患やそれに類するものが、特定の犯罪の原因のひとつである場合があるというのなら、その因果関係を出来るだけ解明して欲しいと思う。他人事とは思えないと言いながら他人事だから言えるのだけれど、感情的に犯人というか容疑者を罰するべきだ、と声高に主張するよりも、社会として、今後同様の事件と被害者が生まれてしまうことを防ぐ方向に持って行くほうが、他人事である僕らのリスクを減らせるのではないのだろうか。いや、これはこれで精神疾患などと向き合っている人たちにはリスクになるのかもしれないけれど。

 こういったことに対して、小説家が出来ることなんて、ハッキリ言ってないと思う。ニュースを見ながら、やんややんや言っている人々と、なんら変わりがない。でも僕は、小説を書くときは烏滸がましいけれど、小説全体というか、社会というか、世界というか、その領域を拡げたいと思っている。または、ごく一部分だけでも更新出来ないかとも。世の中を変えてやるんだ、という意気込みはときに痛々しいものとして冷笑されてしまうのかもしれないけれど、それでも何か、たとえば自分とは違う立場の人々やその人生を想像するキッカケになって欲しい、みたいなことを思ったりもしている。

 徒然と書いてしまったけれど、プロ/アマチュアを問わなければ、小説を書く人の数はごまんとあるし、その作品の数はそれ以上ある。一人一人の書き手が担う領域は狭いかもしれないし、狭くても良い。なにもシリアスな社会問題だけでなく、色々な領域において。改めて自分の書くものが、広大な領域のほんの片隅を担うものであって欲しいし、担いたいという思いを、これまた頭の片隅に留めておこうと思った。